素顔の医師たち/塩谷郡市医師会会員ブログ

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シリーズ 塩谷医療史 −18−

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    塩谷郡医会会長 黒須惟精

                         塩谷医療史研究会代表 岡 一雄

     医家の黒須といえば、塩谷地区では黒須病院の黒須家のことをさす。塩谷地区では黒須の名前の医師は黒須家以外には存在しないと考えられていた。しかし、明治時代の中頃、塩谷地区に黒須惟精(これあき)という医師がいて、しかも医会の会長を務めていたのである。明治に入って初めてできた医師の組織が開業医会である。明治16年の頃である。そして明治26年、県令により栃木県医会と各郡市医会が発足するが、塩谷郡医師会の初代会長が誰だったのか記録は残っていない。この時代の会長名の記録としては唯一、明治2967日喜連川の大草仲次郎の弔詞に「塩谷郡医会会長 黒須惟精」の名前が残っているだけである。しかし、これ以外に黒須が塩谷地区にいた形跡は何ひとつ見つかっていないのである。
     黒須ほど謎に満ちた人物はいない。例えば、ある医師の名前が名簿にあるが、その人物が何をしてどんな人物かわからない時、それは記録や手がかりが残っていないだけだと納得できる。しかし、黒須は塩谷郡以外の場所に足跡を残しているのである。
     『宇都宮医師会史(昭和61年発行)』によると黒須惟精は県立宇都宮病院の二代目院長であった。県立宇都宮病院(前身は共義病院)は明治557日、宇都宮県が音頭をとり有志の寄付によって設立された、栃木県で最初の病院である。初代院長が志賀天眠(宇和島藩医)、二代目が黒須惟精、三代目が安部文安(後の宇都宮医師会長)、四代目が医学士の石黒宇五治、五代目が大橋和太郎(栃木県連合医会設立の立役者)と歴代院長は錚々たる顔ぶれである。また、明治7年には栃木市にあった県立栃木病院の院長に就任したという公文書も残されている。(注:明治6年に栃木県と宇都宮県が合併して栃木県となる)
     黒須は明治9年に全国で統一されて初めて与えられた医師免状の番号が全国で267番であった。これは栃木県で一番早い番号である。この時の免状は医師試験(東京、京都、大阪の3か所で実施)に合格するか、大学(東京大学のみ)を卒業するか、医師として高い地位の公職に就いているかのいずれかの者のみに与えられたのである。
     ちなみにその次の番号が277番安部文安(宇都宮病院長)、280番匂坂選(宇都宮病院副院長)、281番礒良節(黒羽藩医磯良三の長男で栃木医学校講師)、282番大久保元亨(宇都宮藩医で宇都宮病院医員、後に開業)、327番圓山庸、353番阿久津資生(大田原出身で順天堂医事研究会の代表)となっている。これだけ華々しい経歴を持つ人物が宇都宮病院長あるいは栃木病院長をいつ辞めて、どこに開業したかがわかっていないのである。
     明治22年刊「日本医籍」によると黒須の住所は烏山町となっているため、烏山町出身だったと考えられる。『烏山町史』によると烏山藩には寛政41792)年の時点で「黒須玄洞」なる20人扶持程度の藩医がいた。烏山では黒須という名字も珍しくなく、藩医の黒須家出身だったのかもしれない。この時代の烏山藩は蘭学が盛んで、「高田良道」という北関東では洋学医術で有名な藩医がいて杉田玄白や大槻玄沢と交流があった。
     黒須の名前は明治31年刊「帝国医籍宝鑑」には見出すことができない。黒須は明治20年代に塩谷地区のどこかで開業し、その輝かしい経歴から医会の会長となったが、明治30年代に死去し、後継者もいなかったものと推測している。
     
     県立宇都宮病院
              宇都宮医師会史より
     


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